昭和の24年生まれ 戦後生まれ そのためか「本当は教養がないためだが」
満州とは知ってはいたが詳しく知らない そのため最近「満州のことが書かれている本
を」数冊読み勉強してみた どれも関東軍の暴挙 石原の暴挙が中心の本ばかり
だったが つい最近手に入れた本が
読んでみて吃驚だ(*_*; 今迄の本とは観点が違うのだ 日本陸軍と関東軍ではな
く その軍のために犠牲になった人達にスポットを当てた本で兎に角読みごたえ
がある あまりにも悲惨な状況で読まずにページを飛ばしてしまった
大東亜戦争の終戦が近づきソ連が満州の境界線に侵攻 その状態を一番に知る関
東軍の上層部から順番に家族を引き連れ帰国したそうな 「泣けるよ」
そして情報が届かない満州国の経済を支えていた一般市民は 周りの状況から最後
に知り慌てて避難 結局は38度線の境界線辺りで難民になってしまったようだ
(日本人も難民があっことすら知らない私 (*_*;) 😢ね
敗戦が決定的になった時 建国から13年をえた満州に在住の日本人は155万人
首都である新京(長春)には15万人がいたそうな その中で本書はもっぱら郭山
疎開隊の場合を書いているのだが(著者の血縁関係による情報提供)
毎朝 一杯の雑炊をすすり込むと 素足に手製のわらじを履いて雪道に踏
み出してゆく 空腹で腹に力が入らないが 女性たちは背負える限りの丸
太をひもで括り付けて歩きはじめた かじかむ手足と肩に食い込むひもの
痛みだけでなく 通りすがりの朝鮮人の子供たちから小石を投げつけられ
ることもあった 顔をそむけ 歯を食いしばって耐えた
母親たちが耐えるのはまず子供のためである 疎開隊の千人ほどのうちの
半数以上が自力では生きていけない子供だつた その生命をチフスやコレ
ラなどの病気が襲い 何よりも栄養失調が奪う
悲しい苦しい時代ですなぁ それでも生きていくためには弱ってしまった子供を残し
て進んだそうです 😢 満州開拓団として僻地に送り込まれた人々は特に厳しか
ったようです 難民とはヨーロッパとかアフガニスタン シリアだけの事かと思って
いた私が馬鹿だった 日本人にも難民がいたとは もっともっと満州の勉強をしよう
この下の神社は何処でしょうか