毎日が、真夏になってきゾ。。。大変だ暑さに弱い僕にとってはなぁ〜
なのに、なのに、この真夏の盛りの14時ごろに行こう行こうと
言われね、いやいやながらいってみました。土曜日なのにね。
≪南禅寺 大寧軒≫
南禅寺境内にあり、臨済宗南禅寺派の塔頭寺院のひとつでしたが、
明治初期の廃仏毀釈により 廃寺となました。その後、明治末期そ
の跡に、茶道の家元・藪内11代家元・透月斎竹窓紹智によって
作られたもので、飛び石の打ち方や苑路などに趣向を凝らした露地
風の庭園となっております。
こちらの鳥居は、京都の三珍鳥居の一つと云われる蚕ノ社の「三柱鳥居」
を模したものと云われ、普通の明神鳥居を三角形に組み合わせたもので、
三角形の中央から水が湧出ており、この湧き水の水源を石で三角に積み
上げた神座(かみくら)を三方の鳥居で囲んで、それぞれの正面から拝
めるようにしてあると言う説が、本家の蚕ノ社でも説明されております。
無鄰庵会議
この洋館2階の間は、しばしば要人との会見に用いられた。日露戦争開戦前
の1903年(明治36年)4月21日にはここでいわゆる「無鄰菴会議」が行われ
た。その時の顔ぶれは、元老・山縣有朋、政友会総裁・伊藤博文、総理大臣
・桂太郎、外務大臣・小村寿太郎である。
当時、ロシア帝国は強硬な南下政策をとっており、満州のみならず北朝鮮で
も勢力の拡大をすすめていた。 桂は、ロシアの満州における権利は認めても
、朝鮮における日本の権利はロシアに認めさせる、これを貫くためには対露戦
争も辞さないという態度で対露交渉にあたるため、この方針への同意を伊藤と
山縣から取り付けようとしたのである。
この写真は、無鄰菴の一室で対ロ戦の話し合いをしたのですって。