時代祭り〜京都の十月

 時代祭りは、京都の誕生祭として、十月二十二日に行われる。この日は桓武天皇
 が平安京に奠都した日にあたる。平安神宮は、平安遷都から千百年にあたる明治
 二十八年、「第四回内国勧業博覧会」の記念殿として模造朝堂院か建てられた。
 桓武天皇を奉祀する神宮として創建された。又、ここで「平安奠都千百年記念祭」
 が盛大に挙行された。その記念祭の奉祀行事として幕末維新から平安創業までの
 時代風俗行列が企画された。これが時代祭りの始まりである。

 昭和十五年には、京都での最後の天皇となった孝明天皇も合祀された。
 時代祭りは桓武・孝明両天皇の御霊代をほうれんに写し行われる神幸祭・行在所
 祭・環幸祭が中心である。
  
 この平安神宮が創建されたころは、琵琶湖第一疎水の開通・蹴上発電所の始動・
 岡崎での第四回内国博覧会の開催・さらにチンチン電車の開通など、京都の復興
 をかけた時代であった。

 もともと模造朝堂院は、記念殿として考えられていたが、その記念祭の趣旨に則
 り、京都の始祖桓武天皇への報恩感謝の祈りを捧げ、京都繁栄の象徴とするため
 、その規模を拡張して、神社としての形式を整え、社号を「平安神宮」と称し、
 社格官幣大社となった。

 一回目の時代行列は、明治二十八年十月二十二日から二十四日まで行われた記念
 祭の奉祝行事として位置づけられ、翌二十五日に挙行された。この祭りの時代考
 証にあたる取調委員には、金子錦ニ・久保田らが選ばれた。二回目以降は、戦中
 昭和十九年から戦後の二十四年まてで、一時期中止となった。同二十五年、市民
 の強い要望のもとに復活し、新たに格時代のに女人列が加わり、同二十八年には
 紫式部清少納言、出雲阿国といつた各時代の有名婦人列に整備された。さらに
 同四十一年に、孝明天皇百年祭を記念して、坂本龍馬高杉晋作維新志士列も加
 わった。

 創建時、平安神宮の維持保存のために、全紙からなる平安講社という市民組織が
 整えられ、今もこの祭りの執行母体となつている。この講は市内の旧学区単位ご
 とに編成される「組」を単位として構成されたもので、最初は六つの講社を中心
 として行列が組まれた。その構成は、前列、延暦武官山朝列・延暦武官凱旋列・
 と時代の古い順で、例外として山国隊と弓箋組が加わった。

 行列は、市役所から寺町通りを北へ、二条通りを西進し、烏丸通りを南下、四条
 通りを東進、縄田通りを北上、三条通りを東進し平安神宮へという順路であった。
 
 山国隊はかって京北町からの奉仕であったが、明治三十五年から五年に一回の奉仕
 となり、大正十年から現在の朱雀学区が山国隊を継いで「維新勤皇隊列」に加わる
 ともに第八社となった。また、新とう、錦林の両学区は、それまで第三社に属して
 「前例」を担当していたが、独立して第七社を組織して、全部で八講社となった。

 昭和六年右京区伏見区が市域の拡大に伴い新設されたことから、右京区は第九社
 として、伏見区は第十社として、新たにできた「楠公上洛列」「豊公参朝列」に翌
 年から参加し、全十講社となった。こうした行列の増大により、市役所からの出発
 は、御所からに変わり、堺町御門から出て、丸田町通りを西進、烏丸通り南下、四
 条通りを東進、河原町通りを北上して三条通りを東進し、神宮道を北上することに
 なった。さらに同四十一年からは交通の激化にともない、四条通りが御池通り変わ
 った。

 現在では、十八列、約二千名、牛馬七十頭余りで、総延長二キロにわたる行列とな
 つている。行列に使用される祭具はもちろん、衣装や調度品に到るまでの一万二千
 点余りは、厳密な時代考証に基づいて復元しており、いわゆる京都の伝統工芸技術
 の精華を集めたものである

 この祭りに参加する起用と市民は、数ヶ月もの前から各学区の小学校などで、着付け
 や隊列の練習をするなど、全市民に支えられた祭りである。